その最北端である岬も、かすんできて、いずれは見えなくなるでしょう。 また、津軽海峡冬景色は、その後たくさんの歌手により、カバーされている。 この1フレーズだけで、荒波の打ち寄せる冬の崖に、ぽつんとひとり佇んでいるような気分にさせます。
10作詞は阿久悠、作・編曲は三木たかし。
それを作曲家に告げると、メロディも似通ったものになることが危惧されたため、黙っていた。
上野を発車した次の行ではもう、しんしんと雪の降り積もる田舎の駅。
むやみに口を開くことも憚れるくらい、あたりは凍てついてるということだ。 昭和が全盛と思われる歌謡界の中で、しかも演歌歌手が生き残りにくい時代に於いて、15才でデビューし、還暦になった現在も、第一人者として活躍し続けている石川さゆりは、立派で素晴らしく、その揺るぎない彼女の存在は、私にとって嬉しい限りです。
その日の青森から函館に向かう便が後にも先にも最終航路です。
また同一曲11回歌唱というのは、「天城越え」の通算12回(・)に次いで、歴代2位の歌唱回数である。
これを歌っている石川さゆり自身も、はじめて聴いたとき「何だこの曲は」と衝撃を受けたと語っています。
にの蔡小虎がによる『最痴情的人』としてカバー。 では、「津軽海峡・冬景色」の感情表現はどうなっているでしょうか。 しかし、あの青函連絡船の旅も情緒があって良かったと思います。
タイトルが先に決まっており、が作曲したメロディにが作詞をした。
その際に阿久側から「津軽海峡冬景色」のフレーズで終わるように要望があった。
阿久悠が考えた、歌手・石川さゆりの活かし方 「津軽海峡・冬景色」は、三木たかしの曲が先に出来ていて、あとから阿久悠が詞を乗せている。
用事があって、北へ向かう人かもしれませんし、旅行者かもしれません。 最近では、主に彼女の歌はネット動画を視聴して楽しんでいますが、改めて思うのは、石川さゆりは、童謡から都都逸までを熟すことの出来る、真の実力を備えたビックアーチストだと、私は感じています。
2上述にもあるが、2007年の『第58回NHK紅白歌合戦』では阿久の追悼として、石川が紅組トリで同曲を歌唱した(白組トリおよび大トリも同じく阿久が作詞の「」を、が歌った)。
我が国の歌謡曲の定番では、北へ向かうというのは、夢が破れたというか、失恋したというような、悲しげな雰囲気の設定になっています。
概要 [ ] 元々1976年11月に発売された石川のコンセプトアルバム『 ()』の1曲だった。
そこで、「儲からなくてもいい」と損得抜きに新歌舞伎座(大阪)でコンサートをやらせた。 でもこの歌で救われるのは、[さよならあなた 私は帰ります」と歌われているからだろう。
石川さゆりさん『津軽海峡冬景色』の歌詞をブログ等にリンクしたい場合、下記のURLをお使いくださいませ。
まるでベートーベンの「運命」のような「ダ・ダ・ダ・ダーン」という始まり方です。
投稿: 浜のぼくちゃん 2010年5月 2日 日 18時31分 昭和63年3月をもって廃止された翌年だったか、青函連絡船のお別れ航海が催されると知り青森の連絡船桟橋に見物にでかけました。
あがた 演歌の歌詞ってどうしても、悲しみや未練を主題にしがちです。 さゆりさんの声の揺らし方やメリハリ、こぶしの利かせ方が自分の感性に強く訴えてくるものがあったんです。 また、2009年の『第60回NHK紅白歌合戦』でも三木を追悼し同曲を歌唱した。
4紅白歌合戦ではこの曲かもう一つの代表曲「天城越え」を歌うことが多いため、この曲を聴くと、 ああ今年ももう終わるなあと壮大な日曜日のサザエさんを観るような気分になる方もいるのではないでしょうか。
しかし今でも道南以外の北海道は別世界というイメージは残っています。
津軽海峡を渡る前、主人公は横浜にいた もともとこの作品は、アルバムのなかの1曲だった。
(アルバム『タンゴ・ミーツ・ジャパン』)• 彼女はそんな足どりを辿った なにやらサスペンス調ドラマのようなだけど…。
動詞は「降りた」だけですが、「上野発」「夜行列車」「雪の中」という、全て「動き」のある言葉が使われています。
作編曲した三木たかし氏は、冬の津軽海峡の厳しい寒さ・海の荒さをイメージしてこの部分を作ったそう。
さてどうだろう。
あがた さゆりさんも当時は桜田淳子さんっぽいアイドル路線でしたから、この曲で相当イメージチェンジしたと思います。
投稿: 修さん 2008年11月24日 月 21時53分 「青森」と聞けば、寂しい街だったなーと思い出します。